| 9.井関越街道 |
▲上に戻る |
| 井関越街道は、尾崎町を起点に、黒田、石田を抜け、波太神社を通り、井関峠を越えて和歌山に至る街道で、鳥羽伏見戦争のとき、多数の会津藩敗残兵が紀州藩を目指し、この街道を通り抜けた。街道沿いの家々では、戸を閉ざし、息をひそめて待つ者や、荷物をまとめて山中へ避難するものが多く、また、途中傷が悪化し、力尽きて死んだ落ち武者対し、桑畑の村民が山中に手厚く葬ったという話も残っている。
|
 |
|
| 10.三十六歌仙扁額(波太神社) |
▲上に戻る |
| 元禄時代の絵師、土佐光成作。36人の歌人の肖像とその作歌が1扁ずつ額の中に描かれている。それぞれの作品は、微細な描線、華麗な色彩で、彼の遺作の中でも傑作品とされ、大阪府指定文化財になっている。
|
 |
|
| 11.自然居士の大いちょう |
▲上に戻る |
| 自然田地区には、謡曲「自然居士」の主人公・自然居士の出身地であったとの伝承が残っている。いちょうの大樹があるこの付近に自然居士の住居があったとされることから、このいちょうは自然居士の大いちょうと呼ばれ、親しまれている。樹齢約450年、高さ16m、直径1.2mという大きないちょうの木は、昔と変わらぬ姿で、現在も生きつづけている。大阪府天然記念物指定。
|
 |
|
| 12.首斬地蔵 |
▲上に戻る |
| 織田信長が天下統一を目前にして思いもよらぬ最期を遂げ、その意志を継いだ豊臣秀吉が大正13年(1585年)に紀州の根来寺を攻めたとき、波有手(現在の鳥取)の道弘寺を始めとするいくつかの寺院の僧たちが、秀吉に反抗し、首を斬られた。村人たちは、あまりの無惨さに首を斬られた僧たちを手厚く葬り、その上に首から上のない石地蔵を建てて、冥福を祈ったという。信長街道沿いに祀られたこの地蔵を首斬地蔵といい、毎日参詣者が訪れる。
|
 |
|
|
|
| 14.慶長の石燈籠 |
▲上に戻る |
| 波太神社は豊臣秀吉によって修復されたと伝えられるが、そのときの奉行であった片桐且元が寄進したものと伝えられる。和泉砂岩を使用したこの燈籠には、慶長5年(1600年)の銘がある。
|
 |
|
| 15.波太神社 |
▲上に戻る |
| 波太神社には鳥取市の祖と伝えられている角凝命(つのこりのみこと)を始めとする神々が祭られている。平安時代の法律などを記した「延喜式」に掲載が見られることから「式内社」と呼ばれる。現在の本殿は寛永15(1638)年に建てられた。 |
 |
 |
本殿の南側の末社三神社も、その建築様式、手法から、本殿と同時期の建立と考えられる。参道正面に建つ拝殿は、1935年ごろに再建されたもので、本殿はこの拝殿の奥にあるため、その全容を望むことはできない。このように近世初頭の建造物として本殿、末社ともにそろっていることや、両社殿とも建築当時の
優美な建築様式を備えていることから1993年12月、本殿、末社が国の重要文化財に指定された。 |
|
| 16.お菊木像(法福寺) |
▲上に戻る |
| 鳥取地区には、お菊物語と呼ばれ現在も語り継がれている悲しい物語がある。20年というお菊の短い生涯は、50節に及ぶ手鞠歌となって残され、お菊木像を納める法福寺は、別名、お菊寺とも呼ばれている。
|
 |
|
| 17.ヒトモトススキ |
▲上に戻る |
| 関東地方以西、四国。九州の海岸に群生する大型の多年草(カヤツリグサア科)で朝鮮半島、中国南部、東南アジアにも分布する。
茎は高さ2m、ややコルク質の実をつける。葉は幅広い綿型で、高さ1mにもなり、堅い。その鋭い葉はイノシシさえも切るほどだ、 という意味で、別名シシキリガヤともいう。大阪府下でも以前は海岸沿いに多数みられたが、現在では東大阪市と、ここ阪南市の箱作海水浴場付近に残るのみとなっている。
|
 |
|
|
|
| 19.浜街道(孝子越街道) |
▲上に戻る |
| 浜街道(別名、孝子越街道)は、泉佐野市を起点とし、浜づたいに田尻町・泉南市、本市の尾崎・箱作を過ぎ、岬町から孝子峠を越えて
和歌山市内に通じる街道。浜街道筋には往時を偲ばせる古い町並みが立ち並び、趣ある風情を漂わしている。また、尾崎団地の横には「孝子越街道」の道標が現在も残っている。
|
 |
|
| 20.信長街道 |
▲上に戻る |
| 泉南市の信達で紀州街道から分かれ、本市の下出、黒田を通り、鳥取で浜街道と合流する道。織田信長が軍用道路として多少整備したといわれ、この名がついている。
|
 |
|
| 21.波太神社伏拝の鳥居 |
▲上に戻る |
| 熊野詣など、街道を経て他国へ参拝する人々が多くなった時代、遠方から波太神社を伏拝する風習が生まれた。波太神社伏拝の鳥居は、当時の波太神社の権威を示すものとして、今もJR和泉鳥取駅裏にその形を残している。
|
 |
|
| 22.紀州街道 |
▲上に戻る |
| 難波から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれていた。この道は、古代に難波、奈良の都と紀伊国などを結ぶ「南海道」として成立し、平安時代以降熊野詣が盛んになると
天皇や公家たちの参拝所兼休憩所の王子が、山中渓にも2ヶ所設けられ、「熊野街道」 と呼ばれていた時期もあった。この道はその時代や用途に応じてその名を様々に変えている。
|
 |
|
|
|